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フェムトパートナーズ メンバーインタビュー⑤ 磯崎哲也 スタートアップへの科学と「愛」が重要


夢は科学者の小学生

坂本(聞き手) 宜しくお願いします。まずは、これまでのキャリアについてお聞かせいただければと思うんですが、そもそも磯崎さんって子供の頃から、なりたい職業がプロフェッショナルっぽい仕事だったんですか?

磯崎 いえいえ。ものごころ付いた時から高校3年くらいまでは将来、科学者になってノーベル賞を取るのが夢でした(笑)

坂本 なるほど。我々フェムトパートナーズの「フェムト(femto)」という語も、10のマイナス15乗(1000兆分の1)という科学っぽいネーミングですもんね。1フェムト・メートルが、水素の原子核(陽子)くらいの大きさでしたっけ?

磯崎 はい。他にもフェムト秒レーザーとか、通信のフェムトセルとか「小さくても最先端」な領域に使われる単位の用語なので、「神は細部に宿る」という意味も込めて「フェムト」という名前にしました。

今までの100億円くらいのファンドサイズでは、ディープテック分野への投資には工夫は必要ですが、そもそも私自身はディープテック大好きってことです(笑)

坂本 はい(笑) それで、なぜ子供時代に科学分野に興味を持つようになったのでしょうか?

磯崎 普通は、テレビアニメとかヒーローもののドラマとかを見たら、先頭に立って悪と戦う「主人公」に憧れるじゃないですか。私はちょっと変わっていて、ウルトラマンでいうと、武器を開発するイデ隊員とか、鉄腕アトムでいうと、お茶の水博士とか、前線に立つというよりは、何かを開発して主人公たちの力をレバレッジさせるような人が好きでした。

小学校高学年の頃に、仲がよかったグループの女子から、「磯崎くんって、こういうの好きでしょ?」と、ブルーバックス「はたして空間は曲がっているか」をプレゼントしてもらいまして。

その時はダリの絵とは知らなかったですが、「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」という強烈な絵が表紙の、相対性理論を解説した本で。この本の説明が非常にわかりやすくて、都筑卓司先生の大ファンになって、他のブルーバックスの本、熱力学の「マックスウェルの悪魔」とか量子力学の「不確定性原理」とかを、お小遣いで買いに行っては読んでました。
高校3年まで理系クラスで、大学も物理学方面に進む気まんまんでした。

坂本 それがなぜ、経済学科に行くことになったのですか?

磯崎 なぜかというと、物理学系は全部落ち、経済学科しか受からなかったからですね(笑)

友達のお母さんから「歴史とかの文系科目なしの英数国で受けられるから、度胸試しで受けてみたら?」と聞いて、受験シーズンの最初に経済学科を受けてみたんです。

高3の秋まで部活をやっていてそれから受験勉強を始めたので、国語や英語で文系バリバリの人に対抗できるわけもなく。英作文で「火山」という単語がわからなくて「fire mountain」と書くようなレベルだったのですが(正解はもちろん「volcano」)、数学は数Iまでの範囲だったので「簡単だな」と思いました。数学が満点だったから受かったとしか思えません (苦笑)
親は「浪人させる金はないから、行くんだったら学費は出してやる」と。
「経済学も、どうやら数学を使うみたいだ」「そもそも今まで社会や経済がどう動くのかということは考えたこともなかったから、経済も面白いかも」と思って、経済学科に進むことにしました。

新卒でコンサルティング業界へ

坂本 その大学時代にコンサルタント志望になったんですか?

磯崎 いえ、それもかなり偶然の産物でして。大学4年の秋までバイト先のガソリンスタンドに入り浸っていて、気づいたら、どの企業もほとんど採用活動が終わっていて、前年度に設立されたばかりの長銀総合研究所くらいしか、まだ募集してるところが残ってなかったんですね(笑)
今ではコンサルティング業界は人気業種ですが、当時はまだ知名度も低く、私もコンサルタントという職業があることも、リクルートから送られてきたチラシを見て初めて知ったような次第でした。

しかし、新卒1期生だったので、おかげさまで長銀総研ではいろんなことをやらせてもらえました。戦略コンサル的なプロジェクトや長期経営計画の策定もあれば、流通業のレジから会計システムや情報系に至るまでを考えるシステム・コンサル的なプロジェクト、リゾート施設やゴルフ場建設や新規事業などのフィージビリティ・スタディなどで、採算をシミュレーションする仕事も行いました。

そうした中、90年代の中盤になって、インターネットが商用化するぞということになりました。会社の何人かでワイワイとパソコンを取り囲んでモデムからネットに繋いで。現在のようなウェブ(http)ではなく、テキストのメニューを選択していく「Gopher」というプロトコルでしたが、当時日本のハブになっていた築地の国立がんセンターからたどっていくと、なんとアメリカの大学まで繋がっちゃった。「え!今これ、地球の裏側とタダ(市内電話料金のみ)で繋がってるの?!」と感動して「これはスゴい!インターネットをベースにして、何かすごいことが起こるんじゃないか」という予感がしました。

坂本 それがインターネットとの出会いだったわけですね。

磯崎 はい。当時、「六本木6丁目プロジェクト(現在の六本木ヒルズの再開発計画)」の美術館・展望台構想のフィージビリティ・スタディーの仕事を受託したのですが、それが終了した後、「六本木は21世紀のネットの街になるはずだから、インターネットの研究が必要」っていうことになり、その研究会の事務局要員として、森ビルさんからお声がけをいただきました。

その研究会には、慶応SFCの村井純先生や伊藤穰一さんなど、インターネット黎明期のすごい方々が参加してました。

坂本 そうした経験をもとに、インターネット領域のコンサルティングをされていたんですか?

磯崎 ところが、当時はまだインターネットのユーザーがほとんどいない時代で、商売をして成立させるのも難しく、コンサルティングのニーズは無いな、と。ということで、私はコンサルティング事業部から産業調査部門に移って、インターネットの調査研究をやらせてもらえることになりました。

今でいう「クリプト」というか、公開鍵を使ったインターネット上の暗号化や電子署名の原理から始まって、インターネットをビジネスや産業にどのように応用できるかまで。

インターネットで単価の小さい物を売ってもまだビジネスになる気が全くしなかったのですが、金融分野についてはアメリカでは既にビジネスでの利用が進んでいました。今で言う「フィンテック」ですね。
金融分野は取引される金額がデカいので、米イートレード証券などはすでに黒字化・上場もしてました。このため、 「『インターネット×金融』の領域はいけるんじゃないか」ということで、英語もろくに話せないのにアメリカに行って、現地の事業者の話を聞いてきてレポートをまとめたり、その成果をもとに国内あちこちの会社で講演をしたりしていました。

インターネット証券創立に参画し、スタートアップの世界へ

坂本 「研究」だったのに、それがなぜスタートアップの世界へ?

磯崎 調査結果を各所に発表して回っていた頃に、長銀の関連会社であった第一証券のシステム部門に面白い人がいるよと紹介されたのが、齋藤(正勝)さん(後のカブドットコム証券(現auカブコム証券)代表取締役社長)でした。

証券領域は1999年7月に証券自由化がちょうど控えていました。それまで証券会社は免許制で、資本金が数十億円以上ないと設立できなかったのですが、登録制で「(態勢などの要件をちゃんと満たせば)資本金1,000万円以上で誰でも証券会社が始められる」っていう時代が来るという局面でした。

なので、「俺たちでも証券会社作れんじゃないの?」という話になって意気投合し、齋藤さんが「Windowsサーバを使えば、従来の10分の1規模の金額でシステムが構築できる」という方針を立て、すごいシステムエンジニアやデザイナーなどの仲間を集めてきました。それまで証券のシステムは汎用機で100億円以上かけて構築するようなものだったのが、Windowsのサーバなら10億円に下がるはず、という目論見でした。しかし金額は下がっても、当時の10億円というのは、若者が集められるなんて、とても想像もできないような額でした。

私はCFO的な役割担当だったのですが、資金調達など生まれてからやったことなかったし、何をどうすればいいかもわからない。あちこち声をかけているうちに、ちょうどオンライン証券で何かビジネスができないかと考えていた伊藤忠商事さんから「オンライン証券設立を担当できるようなチームがいないか?」と問い合わせをいただいて、「いますいます!めちゃくちゃいいチームがいますよ!」と(笑)

まずは齋藤さんと私の二人で1998年9月末でそれぞれの会社を辞め、10月から伊藤忠商事内でオンライン証券立ち上げのプロジェクトに関わることになり、他のメンバーも後から続々ジョインしました。結果として翌年、伊藤忠商事、日本マイクロソフト等の出資で、日本オンライン証券(のちのカブドットコム証券)が設立されることになりました。

坂本 つまり、エンジェルやVCから出資を受ける、今のような「スタートアップ」というよりは、伊藤忠商事という大企業のプロジェクトだったわけですね。

磯崎 はい、その通りです。ただし、資本の構造は違っても、ドキドキ・ワクワクする「イノベーティブな事業の立ち上げ」であることには変わりありません。今で言う「0→1(ゼロイチ)」ってすごい楽しいな!こんなワクワクすることは人生で他になかったな!と感じました。

一方、当時の私は、まったくファイナンスとか資本政策とかをやったことがなく、創業メンバーが株を持てるようにできなかったことが、大変申し訳なかったと思ってます。今のファイナンスの知恵があれば、「先に自分たちで設立準備会社を作っておいて、そこに出資してもらう」とか、いろいろ手は考えられたのですが、当時は何も知識がありませんで、それが私の人生の最大の反省点の1つです。

坂本 磯崎さんが資本政策に失敗している姿は想像つかないですね(笑)

磯崎 はい。システムを作っている他のメンバーも、「株とかどうでもいいから、1秒でも早くシステムを立ち上げたい」という感じでしたし、ストックオプションもまだ無い時代で、特に当時は「大企業主導のプロジェクトなのに、従業員が株を持つなんて考えられん」って時代でした。

後知恵ですが、結果的にオンライン証券というのは参入の時期が早い企業が有利だったので、その時の「1秒でも早く事業を立ち上げる」というのは事業成功のためには正しい判断だったと思います。

坂本 それが1998年の話ですね。

翌々年2000年には、サイバーエージェント藤田さんの「渋谷ではたらく社長の告白」が出版され、インターネットバブルについて記載がありますが、当時は「なんかとんでもないものが来て、世界が変わろうとしてる」っていう雰囲気だったんでしょうか?

磯崎 そうです。当時「ビットバレー」が盛り上がってまして、ソフトバンクの孫さんが「どうしてもこの会に参加したくて、ダボス会議からプライベートジェットで帰ってきました!」と壇上で言って、身動きが取れないほど人がいっぱいの六本木のディスコ「ヴェルファーレ」の会場が「おーっ!」とどよめくような。

大久保さんインタビューの回でも話しましたが、私自身は、アメリカから一時帰国したネットイヤーの小池(聡)さんから「シリコンバレーから日本に逆上陸したいから、手伝ってくれないか」と言われて、日本のネットイヤーの社員番号1番となりました。

南青山に借りたオフィスの内装工事に立ち会ったり、インターネットの回線引いたり、といったところからやって、なんか楽しかったです。

坂本 わかります。オフィスに回線を引いたりするの、何故か高揚感があるんですよね(笑)

私がフェムトが株主だったスタートアップでCFOをさせて頂いていた頃に、「磯崎さん、組織の成長に応じて起こるペインに対する解像度が高いな」と思ってましたが、それは、ネットイヤーという爆速で成長するスタートアップにいたからなんですね。

磯崎 はい。やはり、ベンチャーキャピタリストは、「投資側」だけでなく「事業立ち上げ側」の風景を想像できることが、すごく大切だと思います。

初期のネットイヤーがやろうとしていたことは、単にお金を出すだけじゃなく、投資先をサポートするシリコンバレー風の「インキュベーター」で、様々な投資家に当たって、14億円のファンドを作りました。

その後ネットイヤーは、インターネットのコンサルティングを始めて、そちらの人数が急増していきました。一方、VCファンドのビジネスは、一度立ち上げたら、数年間はそのファンドサイズの収入で事業を進めないといけないので、そんなに急成長はできません。そのコンサルティング部門は上場を目指すことになり、私もそちらのCFOをやることになりまして、50億円ぐらい資金調達をしました。当時としては、今の500億円くらいを調達する感覚だったと思います。

坂本 当時の50億は凄いですね、、、!

磯崎 私たちの実力というよりは、当時はネットバブルで、どの企業もすごいバリュエーションがついていて、内外の人も「ネットイヤーは時価総額1兆円は行くな」と言ってたような時代です。私もストックオプション1%弱貰っていたので、「もしそうなら、このストックオプションは100億円くらいの価値になるはずだけど…」と思ったんですが、どうもそんな実感はしない(笑)

案の定というか、そうしているうちにネットバブルが崩壊し、従業員やオフィスのリストラも行われ、間接部門の人数も非常に多かったので、私もやめさせていただくことになりました。

「起業のファイナンス」執筆の経緯

坂本 そこから個人でスタートアップのコンサルになったんですね?

磯崎 はい。当時39歳で、「もうすぐ40歳『不惑』だから、自分として迷いなくできることは何か?」と考えたら、やはり「最もワクワクするスタートアップのことをやりたい」と思いまして。

ただし、当時のスタートアップは、資金調達額も非常に小さく、「お金が無いのがスタートアップ」という時代でしたので、アドバイスも無料だったり10万円くらいだったり、それだけで家族を食わせられる額にはとてもならない。ミクシィの社外監査役やカブドットコム証券の社外取締役をやらせてもらい、そこでそこそこ高い報酬をいただいて、それで食いつないでおりました。

坂本 「起業のファイナンス」が出版されたのは、どういった経緯だったんですか?

磯崎 2008年のリーマンショック後は、経済全体の調子が悪くなって、日本のスタートアップ生態系も「このままでは完全に消えちゃうのでは?」というところまで衰弱していました。
そんな頃、レオス・キャピタルワークスの藤野(英人)さんに、「スタートアップを盛り上げるイベントをやらないか?」と声をかけてもらって、日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(NTVP)代表の村口(和孝)さんと3人で「起業を増やさNight」というイベントをやることになりました。

今では毎日のようにスタートアップ関連のイベントがありますが、当時は、スタートアップ向けのイベントは、年間 2〜3件しか目にしないような時代でした。私は内心「イベントなんかやらなくても、デキるスタートアップなら、自分で情報くらい集められるだろう」と思っていたところもあるのですが、実際イベントをやってみると、これがものすごく盛り上がりまして。恥ずかしながら、そこで「起業に関する情報って、こんなに求められてるんだな」と再認識した次第です。

2004年からブログ(isologue(イソログ)、現フェムトマガジン)でスタートアップやファイナンスに関する情報発信はしていたのですが、そんな頃に横田(大樹)さん(当時、日本実業出版社、現在ダイヤモンド社書籍編集長(第2編集部))が私のオフィスに来られて、「ブログに書きためてる内容を本にしませんか?」とご提案いただきまして。そこで執筆したのが、2010年に出版された「起業のファイナンス」です。


ベンチャーキャピタル設立

坂本 しかし、ずっと「スタートアップ側」の人だった磯崎さんが、なぜ「投資側」の人になったのでしょうか?

磯崎 一つは、アドバイスだけだと「いくら自分が可能性のあるスタートアップだと思っても、お金を出す人がいないと具体的な形にしていけない」という もどかしさがあったからです。

加えて、スタートアップに最も必要なアドバイスは、マーケティングや資金調達といった個別の話もさることながら、それらを組み合わせた「全体」としてどうすればいいかを考えることです。法律や会計といった具体的なサービスならともかく、そうした領域をまたがるようなタイプのアドバイスではなかなかお金はいただきにくい。今後は「お金をいただいてアドバイスする」ではなく、逆に「お金も出して、しかもアドバイスしますよ」という方向に転換していかないとダメなんじゃないかと思いまして。

その当時、米国ではY Combinatorとか500startupsといったアクセラレータが数百万円程度の出資をしてスタートアップの成長を手伝うといった動きが出てきていたので、それの日本版をやろうということで、1件300万円から500万円を出資するフェムト・スタートアップ(「0号ファンド」)を インターリンクさんと始めたのが、2012年1月です。

実際、我々も1位をいただいた、英Preqinと日本ベンチャーキャピタル協会のパフォーマンスベンチマーク(下表)でも2012年からネットマルチプルやIRRなどのパフォーマンスが急に跳ね上がりますので、そこがちょうど日本のスタートアップの歴史的転換点だったんじゃないかと。何か「野生の勘」(笑)で、潮目が変わるのを感じたのかもですね。

坂本 で、次に新生銀行と16億円のファンドを作ることになるんですよね。

磯崎 はい。大久保さん(マネジングパートナー)のインタビューの回でも言いましたが、ちょうどそのちょっと前に、新生銀行がスタートアップに関する委員会を作って、 そこに僕も呼んでもらって、そのご縁で、ある日 曽我さん(ゼネラルパートナー)の上司が訪ねてきて、「一緒にベンチャーキャピタルできたらいいっすね」という話になり、とんとん拍子に1号ファンドができました。

坂本 つまり、ネットイヤー時代のファンド運営の知見が、そこで活きたんですね。
磯崎さんという「個人」と銀行という法人が組んでVCをやるなんて、それまで無かったですよね?

磯崎 無かったかと思います。

日本で最初にLLP(有限責任事業組合)をGP(無限責任組合員)にしたファンドでもありましたが、個人と法人が組むという形態だったからこそ、そうした、「個人」の性格を残したストラクチャーにする必要があったわけです。これはネットイヤーのファンドのGPがデラウェア州のLLCだったことが、大きなヒントになりました。新生銀行は「元外資」ということもあり、そうした先進的なことを受け入れてくれる素地があったんではと思います。

結果として今や、そのストラクチャーが、現在の日本の独立系VCのスタンダードにもなりました。

その後、おかげさまで2号ファンド(2017年、40億円)、3号ファンド(2020年、111億円)も立ち上がって、現在4号ファンドの設立に取り掛かっているところです。

坂本 私がフェムトの投資先のCFOだった2017年頃は、2号ファンドが立ち上がって、フェムトが完全な独立系に移行するところでした。当時から比べるとメンバーも増えて、役割は変わっていると思いますが、そのあたりはいかがでしょうか?

磯崎 私は元々ずっとコンサルタントで、ネットイヤーを辞めてからも、個人でコンサルティングをやっており、組織人というよりは職人タイプで、スタートアップと触れ合うというところが一番の喜びでやってきました。

フェムトの組織もだんだん大きくなってきましたが、やはりベンチャーキャピタリストというのは、組織として行動しながらも「個人」としてプロフェッショナルでないといけないと考えています。フェムトの組織も、先述のLLPや民法上の組合などを使って、フェムトの全員が組合を通じて直接株式を保有する「投資家」として「オーナーシップ」を持ってもらい、キャリー(キャピタルゲイン)の分配も受けられる仕組みを作っています。スタートアップ側は、創業者株やストックオプションといったインセンティブの仕組みがかなり普及してきてますが、VCにも同様の仕組みを導入し、「そういう仕組みがあるよ」ということを広く知ってもらわないと、業界の発展は望めないと考えています。

数百億円のAUM(預かり資産残高)がある国内VCも増える中で、フェムトは百数十億円くらいでまだまだ小さいのですが、おかげさまで1号ファンドが、パフォーマンスベンチマークで日本の1位もいただきました。

将来の成功している日本の姿を考えてみると、そこの中でVCはものすごく重要な位置を占めているはずです。フェムトは、すでに非常にいい位置にはいますが、まだまだ一般の人が知るような存在には程遠いので、このフェムトを日本を代表するようなVCにしていくことは、非常にやりがいがあることだと思ってます。

坂本 僕も正直、フェムトのインセンティブ設計は魅力的だと思っています。最後にフェムトの採用において求める人材像について教えて下さい。

キャピタリストには「スタートアップ愛」が必要

磯崎 1号ファンドを作った時の仮説は、「シリコンバレーに比べて日本であまりスタートアップが成長できないのは、まずは、スタートアップに投入される資金の絶対量が足りないからだ」「日本にも優秀な人はたくさんいるので、億円単位の資金さえちゃんと付けば、すごい成長していくはず」というもので、実際に1号ファンドは高いパフォーマンスになりました。

日本でもシリアルアントレプレナー(連続起業家=連続して何社も起業した経験を持つ人)が増えてきましたが、初めて起業する人の方がまだまだ全然多いですし、一番間違いやすいのはやはりファイナンスのところなので、フェムトのファイナンスの強みは、引き続きニーズがあるはずです。

ただ、日本のスタートアップ生態系も、資金供給量はかなり充実してきたので、「何故フェムトから投資受けるのか」という時に、「事業を成長させる視点」「産業・事業の視点」を持った人も、もっといたほうがいいと考えています。例えば、事業会社の一定の領域で働いたことがあって、スタートアップにすごい興味があるんですっていう人とか。

単なる「金融屋」ではないのはもちろんですが、ベンチャーキャピタリストは、その根底に「スタートアップへの『愛』」があることが必要だと思ってます。世界では、さまざまな領域が成長しているので、そこに関心と勇気を持ってベンチャーキャピタル業界に飛び込んで来ていただきたいなと思います。

坂本 有り難うございました。なかなか刺激的な、磯崎さんのルーツについて知ることができました!


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